昭和四十八年六月十二日 御理解第二十九節
「桜の花の信心より梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る、梅の花は苦労して居るから永う散らぬ。」
信心辛抱梅の花と、梅の花の信心を辛抱の代名詞の様にここでは頂きます。梅の花の信心とは辛抱すること。その内に辛抱の徳が身に付いてきて、それこそ花が咲いて鴬が来て止まる。そして青い粒の実ともなって梅干しともなって何時迄置いても腐りも悪くもならんと云うような徳のなると云う風に頂く訳です。
これは色々に頂いております。例えば普通ではそれを御徳家と云う人もありますけれども、私は霊徳家と思う。いろんな事が分かったりする、云うならお伺いが出来たりする。普通の人では見えないところが見えたりする。いわゆる千里眼的なとも申しましょうか。そういう信心を私は桜の花の信心だとこう思う。
ですから例えば、霊徳の優れて居る人のところでは、沢山の人がやはり集まりますけれども、その人が亡くなりますと後はスーッとしてしまうと云うのがありましょう。
これはお道の教会でもそうです。先代が大変な霊徳家であった。それこそ沢山信者が集まったけれども亡くなられると後は火が消えたようにスーッとすると云う所がある。
勿論その霊徳が悪いと云うことではない。霊徳に基づいて真の信心を分かり又分からせれる。それを先ず云うなら御神徳と云うのでしょうか。
御神徳と云うものは、あの世にも持って行けこの世にも残して置けれると云う、そう仰るのですから有難いですけれども・・・
だから霊徳的な信心を桜の花の信心。パーッとした一時に集まる。けれどもその人が霊徳を失ったり亡くなったりすると、又それこそ蜘蛛の子を散らすように散ってしまう。そういう風な場合にも桜の花の信心と。
合楽の場合、どういうことかと云うと、成程おかげは頂かれ無い けれども各々がその気になれば御神徳を受けることが出来る。てんばらやすうおかげは頂かれんけれども、そのそういう例えばおかげの受けられないからこそ真の信心が出来る。だからお徳を受けて行くと云うような在り方もある訳です。又てんばらやすうおかげは散やすい。
それこそ一文二文と貯め上げたお金なら仲々みてると云うことは無いけれども、濡れ手に粟の掴み取りと云ったようなおかげはやはり散やすい。それが桜の花の信心と云うのでしょうねえ。
ですから今合楽で昨日でしたか、福岡の池田さんが頂いておられるように、鯉と云うのをお徳とここでは表現しますが、鯛のような大きな鯉が飛び出している、外へ。だから掴もうと思うたら本気でその気になったら頂けれる。問題は本気になるかならないか。
例えば琴の稽古をする。もう譜本を見て一生懸命に師匠の言う通りに稽古をする。そういう事なんだ。けれども琴の稽古をしよるけれども、譜本は見らんでいきなりさんぱちバラバラひいとっただけでは本当な琴の稽古が出来る筈がない。
信心でもそうです。只参っとるだけで神徳受けるということは絶対無い。本当に教えというその譜本に取り組んで一生懸命それを稽古してこそ初めて自分でも聞き取れるような音色が出るようになる。そういう場合も梅の花の信心とか桜の花の信心とかが言えるでしょう。又痒いから掻くと云うのは桜の花の信心だと仰る。もう自分の気持ちがよかけん、がしがし掻く、けれどもそれをじーっと辛抱するのが梅の花の信心だと頂いたこともある。
昨日善導寺の原さんが御祈念の後に残っておられました。それでお届けをしております。
今千恵子さんがああして毎朝参ってきます。今子供の良一君が福岡の兄弟の家に、もう返さんともう家で幼稚園にやると、あんたもよかしお母さんも助かるけんと云うけれども、母親としてはそんな訳にはいけん。今は良一君があちらへ行っとりますから一人なんです。今久留米で小さい喫茶店をやっております。それが始めてから毎月毎月赤字になる。云うなら毎日毎日通うては行っておりますけれども、今日も又いくらかの赤字である。一生懸命勤めても、はあー今日かおかげ頂いて儲ったと云うなら生き生きとして元気も有ろうけれども、一生懸命勤めて帰って来る。ああ今日もいくらの赤字、それに家は真っ暗で子供なっとおりゃええけれども、只それこそつくねんと一人で又色々ものを思うたり寂しい悪いことをするだろう。これがおばあちゃんの気持ち、母親の気持ちである。
だからまあ一生懸命こうしてまあ朝参りも出来るんだけれども、丁度おとといの月例祭の晩の御理解がね、もう千恵子にもってこいの御理解じゃった。今日私は帰りがけ寄ってから昨日の晩の月例祭のお話をして帰ろうと云う訳なんです。それで私がそれは止めときなさいと云うて北野の秋山さんの話をさせて頂いた。
皆さんも御承知の様に秋山さんと云えばもう婦人部でももう本当に信心も熱心ですし、信心も分かっておる。けれども仲々自分の事になると分からんねと、云うて話したことでした。
今頃から一番下の娘が久留米に縁についとりますが、夜眠られぬんと云うて帰って来ている。さあお母さんはつきっきりのごとして参って来る。それがもうつきっきりのようにして色々世話やく。
もうこの人ばっかりは馬鹿じゃなかろうかと私がここから見て思う位にある。あれがもう、他人の事ならハッキリ分かること。人情を使いすぎる。
そこで二、三日前に色々とあちらから電話が掛かってきたり主人になるとが来たりするからね、もう一辺つっぱなしなさいと、そして一生懸命願ってやりなさい。あんたがついて、いいやついてお参りして来にゃ途中で倒れどんするとどんこん出来んからとこんな事言うのです。成程何処でか一辺倒れたことがあるそうです。
けれどもそういう事ではおかげが受けられんことは充分に知って居る秋山さんが、もうさあー一番下の娘の事になるともうそれこそ子煩悩になってしまう。昨日原さんにもその事を話した。それからつっぱなして帰した。そしてもうその晩に電話かくうごたった。眠ったじゃろうか、眠らじゃったじゃろうかと思うてからそして今晩電話かくると・・そげなこつも止めときなさいと、そしたら明くる日夕べはお母さん心配しとろうと思うてから電話かけたと云うてかけてきたのがおかげで眠れたと云うことであった。
どげな風じゃったの、眠れたのどうのと、もうこれがね、それがおかげになるとか、ならんとか云うだけならいいですよ。ところがそういう人情使うたら使うただけおかげはマイナスになるのです。これはもう本当にそうです。だから放からかしていくじゃなくて放からかしておいて神様にすがってやると云うことなんです。
原さんが昨日帰りに千恵子の所に寄って夕べの御理解を聞かせたら丁度あの人にうってつけの御理解じゃったから元気が出るだろう。成程それは言うて聞かせたらお母さん有難うと涙を流して喜ぶかも知れん。けれどもそれでは力にはならん。
おかげでよかとこ通らせて頂いております、おかげで修行させて頂きよります、でなかったらそれこそあんまり調子に乗りすぎたら、とても今の信心の出来る段じゃない。むしろお礼を申し上げねばならんごたるところを母親がかえって人情を使うておかげの邪魔をする様なことになる。
それは言うて聞かせて随喜の涙を流すかも知れん。それは但し桜の花の信心じゃから、そん時は、はあーお母さんなればこそと喜ぶかも知れんけれども、それは又パッと散ってしまう信心なんです。桜の花の信心とは・・・
昨日これも福岡の恵美子さんが毎日日参して来ます。御承知のように子供が糖尿病。もうそれこそこれ以上痩せられまいちゅうぐらいに痩せとる。そして足だけはこう太っとる。腫れとるとです。もう大変重態も重態、それで母親は一生懸命お参りをして来る。
先日も参ってきてから、親先生どうでも今度の八月の〇少の全国大会には御本部参拝が出来ますようにと云うお願い。成程御本部参拝をさせて頂く、お礼参拝が出来ることの為にようなして下さいと云うのですから神様も喜んで下さるごたるばってん、恵美子さんそげな願いじゃいかんよと私が申しました。誰が見たっちゃ、あんたげのそんなら医者が見たっちゃ素人が見たっちゃ、とてもあれじゃ助かりきりなさるじゃろうかと云う状態じゃろうが。
それももう八月には全快のおかげを頂いて、元気で御本部参拝の出来るごたるおかげを頂くと云うことは、それは有難いことのようであるけれども、そんならそれで願うたからと云うておかげになりゃいいけれども、そげなこつじゃおかげにならんて・・私が・・
それよりかね、あんたげの場合は今日一日安代が生きとると云うことだけにお礼を申し上げる気になってごらん。
昨日参ってきてその事を言うのです。もう親先生本当に心が楽になりました。朝目を覚ます、まあだおかげで云うなら寝息を聞くとです、ああおかげで今日も生きとりますと思うてお礼を申し上げると涙がこぼれたと。
そげな有難い気持ちになったことがなかった。今迄どうぞどうぞとお願いする時には・・・・成程お礼の信心が有難いと云うことが分かる。同時に親先生、安代があげんですからおかげで信心が出来ますと云う昨日お礼のお届けをしました。もう恵美子さん、それで信心は進めて行く以外はないよ、と。
昨日私午後の奉仕の時上野先生と末永先生をここへ呼んで、折角お道の教師にならせて頂いて人が助かることの為の修行しよるとじゃからと云うて二人をここへ据えてこんこんと私は御理解を説かせて頂いた。そして御祈念につかせて頂いたら、頂くことがね、
「せせらぎの音の向こうの猫柳」と頂いた。(二度読む)
丁度私が二人に一生懸命お話しとるところを後ろの方から、それを一生懸命拝聴しておる人があった。
せせらぎの音と云うのが二人に私が一生懸命お話をしとる。本人は分かったか分からなかったか知れない。ひょっとすると“手はつけど目は上を向く蛙かな”だったかも知れない。
私が一生懸命、二人は手をついてそんなら拝聴して居るようであるけれども、目だけ上を向いとったつか分からん。
ところがどっこい、後ろの人はもう真剣に頂いておったと云うことです。いわゆる柳と云うのは素直、素直に先生方二人が頂いておる御理解を後ろで、はあーこれは私が頂く御理解と思うて頂きよる。ですからね、例えばそんなら言いたい、話してやりたいと云うような事でもです、私が昨日原さんに申しましたように、いくらかよか話しじゃったからと云うて、そういう雰囲気がそこに出来て、今日の御理解はこうじゃったもんねと云うて話すならよかばってん、此話はこの人にもってこいじゃから話すなんて話はしなさんなと私が言うのです。
自分が今日の御理解頂いて有難かったから今日は有難かったと家族中の者がそれを話し合う時にそれを聞いておかげを頂くと云うことは別だけれども、あの人にはもってこいだからこの人にはこれを一言言うとかにゃと云うて言うのではそれは桜の花の信心。それはどういう素晴らしいよい事であっても、それこそ手はつけど目は上を向く蛙かなと云うことになりかねない。
ですから、言いたいことは明日言えでありそれこそ黙って治めると云う生き方程素晴らしい生き方はない。
例えばこの事をと言いたいことは、神様が云うならばこの人達に聞かせるようであって、実際は後ろの人に聞かせよると云うような神様が演出をして下さる時がある。それでいいのだ。
今日私は桜の花の信心をそういう風な角度から聞いて頂いた。これはここで言うて聞かせるとか又今日の御理解は素晴らしかったけん、家の嫁に聞かせたい、家の娘に丁度うってつけの御理解じゃったと云うて、そげな事は止めときなさい。
そんなら娘又は嫁なりがです、お母さん今日の御理解はどげんでしたか、夕べの月例祭のお説教はどうでしたかと求めてきた時には千恵子さん、こうじゃったばいと云うて言うてよいけれども、成程寂しかろう、難儀な事であろうけれども、本当におかげで娘がよい修行が出来ますと云うてお礼を申し上げていく。そしてそれでも足らんならば、縋ってやりなさい、願ってやりなさい。これが梅の花の信心だと。
それが素晴らしい事であっても、小言の一つも言わねばならない様なことであっても、それを言うてしまうと云うことはこれは桜の花の信心だと。相手も涙流して喜ぶなら悪いことはないけれども、そういう風で分からせたのは長続きしませんです。パッと散るです。けれども神様が神乍に分からせて下さったならばこれで梅の花の信心ですからそれはいついつ迄も残るです。そういう信心を今日は梅の花の信心と聞いて頂きました。 どうぞ。